コピペ019

■人間関係

 「私との関係を簡単に絶とうとしたのがショックです」と少ない友人の一人であった彼女に言われた。

 しかし次の段落で、私が全てのSNSサービスをやめるという文章には彼女は何も反応をしなかった。1500人近い人間関係を私が切ることよりも自分との関係を切られたことを彼女は悲しんだ。その矛盾に彼女は気が付いているだろうか?どちらも私が決めたことなのに。1500人の内、彼女と同じように会った人も彼女以上に会った人も何人もいる。関係の優先度なんて本人だけにしか分からない。私はただ彼女から先に見捨てられるのが恐かった。自分から先にやってしまえば心の均衡を幾分か保つことができる。それより私は彼女がそこまで私との関係を大切に思っているとは思わなかった。特定の話を出来る大勢のうちの一人程度の認識で居た。

 彼女はしばしば「心の妹」と私の事を指していった。私には兄がいた。でも思春期の頃小さい子供だった彼にとって私はきっとうざったい幼い存在に過ぎず、中学校に私が上がる前に大学やら何やらで家を出、めったに帰ってくることはなかった。それ以降は年平均で一度会うか会わないか程度だろうか。血の繋がった他人のようなものだった。だから私は兄弟関係というものにあまり素敵なイメージという物が描けない。喧嘩だってした覚えがない。同じように兄がいる人たちと話していて『小さいときは殴り合いの喧嘩ばっかりだった』『うざくて仕方ない』とか言うのがとてもとても羨ましかった。血の繋がった存在さえ兄というイメージが上手く掴めないのに、ただでさえ想像力の貧困な私が姉という存在を描くのは難しかった。

 また私は、これは人間関係を築いてゆくのに致命的な弱点であるのだけど、「一定の関係深度以上になると逆に不安になって壊したくなる」というものがあった。今回の問題に至る原因とはまったく関係無い。けれど今回の件で『ああやっぱり私の所為で壊れてしまった』と得体の知れない安心感を抱いていることに私は少なからずぞっとしている。

 あの教室のような騒がしく緩やかな仮想空間も私には必要だった。それでも私はクリック一つでいくつかのアカウントを消した。何も持っていない人間が責任を取るためにはその命をもって贖うしかないというのは大昔から決まっていることなのである。

 それから数日経って今、私は名実共に一人だ。元々大学でも友人と呼べる存在は居なかったし、関係のほとんどをSNSに依存していたから私の周りには誰もいない。それでも言葉の形をした何かを吐き出さなければ死んでしまいそうだったから私はブログを再開した。今彼女は周りの恵まれた人々と楽しそうにしている。それを見て私は寂しさと彼女が楽しそうにしていることに安心感を抱く。私の事など彼女はもう知らないで、思い出さなくてもいいのだ。そして私は世界に繋がっているけれど閉ざされたノートPCの前で溜息を吐く。

Permalink | トラックバック(0) | 17:52